「型」を考えてみる

中部産政研
理事長 加藤 裕治

21世紀に入り最初の10年。21世紀に対し抱いていた期待は失われ、「不安」の方が強くなったと感じている人が多いのではないだろうか。確かに、少子高齢化、経済の後退、政治の混迷、失業率の高止まり、社会保障の先行き、自分の健康・・・などなど不安の種は尽きない。

 「不安」を感じるというのは動物の中では人間だけだと言われている。それは人だけが持つ限りない想像力に由来する。想像の世界で限りなく懸念材料を探せばきりはない。「杞憂」というのは「天が崩れ落ちてくる」ことを憂えることを戒める中国の故事である。つまり「不安」はある意味で人の想像力が作り出すものでもあるわけだ。先行きは明るいと根拠のない楽観論をふりかざすのは問題だが、かといって、「不安」に打ちひしがれているばかりでは現在の苦境から抜け出る道が見えてこないことも事実だ。

  今日のような不確かな社会にあってなにか外側から強い力が自分を引っ張ってくれるということは期待しない方がよい。かって日本が高度成長を謳歌していた時代は、経済も生活も全てが右肩上がりで、その中でそれなりにやっていれば、今日よりは明日、明日よりは明後日が必ず良くなるという確信が共有されていた。少々の壁もそれで乗り越えてきた。しかし、今の時代にそれを求めるのは明らかに無理である。ところが、社会は「政治がしっかりしてくれれば」「経済さえ戻れば」というように引っ張る力をあてにするような論調が目立つ。政治に対しても「○○戦略が見えてこない」というようなコメントをする人が多い。確かにそれもそうだろう。しかし、社会を構成しているのは人であり、人が頑張り、いいものを作り、提供し、それを人が買うという循環が働かなければ成長することはない事も事実である。こんな時代だからこそ、外側の力に頼るのではなく、「自分が変わってみよう」と思うことが大事ではないかと思う。

 いまや世界共通語になった「カイゼン」を考えてみよう。カイゼンの神髄は職場を構成する全ての人が、昨日より今日、今日よりは明日と少しでも良い仕事をしようと日々努力する点にある。そうして努力するうちに個々人のポテンシャルは向上し、そのトータルとしての会社の力も向上する。力が上がれば業績は上がり配分も増える。その好循環の原点はあくまでもそこにいる個人である。なかなか成果が見えてこない時にそのようなエネルギーが湧いてこないという向きもあるかもしれない。そこで、こんな時代こそ、1人1人が「自分が成長している」という確信を持てるような生き方を心がけたらどうかという提案をしてみたい。

  それは「型」に戻ってみようという提案である。武道の世界では「守、破、離」ということが言われる。つまり、まず基本となる「型」を徹底的に身につける。それができたとき「型」を破ってみる。そして自分の「型」が出来上がったとき「離」すなわち飛躍が見えてくるというのだ。運動の世界はことごとくそれが基本ではないだろうか。世界で活躍するイチロー選手、石川選手、浅田選手、宮里選手などを見ていると苛酷なまでに自分を鍛え上げ、追い詰めるなかで進歩を求めている。才能によりかかる姿勢など微塵も見えない。

  「鍛える」とは何か。それは運動や競技の「型」を繰り返し身にたたきこみ、その中で自分の弱みを知り、それを克服し、すぐれた点はもっと伸ばしていく。そういうことの繰り返しに他ならない。他に近道などないのだ。

  誰もが一流になれるわけじゃないという向きもあるかもしれない。しかし、その「型」「基本動作」あるいは「基礎体力」といってもいいが、それを鍛えていくことの良さは、その人のレベルが今どうであろうと、必ず「伸びていく」事が実感できることにある。たとえば2キロを何分で走れるか。そのタイムは始めた年齢が何歳でもやればやっただけ短縮していくものである。そういう実感が今日の練習へのエネルギーとなり人を無限に伸ばしていく。知らぬ間に去年とは違う自分になっているものだ。

  スポーツの世界はこのように分かりやすい。目指す種目によってやるべきことも見えているし、体でも感じられる。では、人間の思考能力はどうだろう。物事を考える力はどうやって鍛えるか、そしてどうやって確認するか。である。考えることに「型」はあるかといえば、やはりあるのである。

 たとえば文章を作る力を考えてみる。日本には「俳句」や「短歌」という日本独特のすぐれた文化がある。日本語であるからこそ出来上がった「型」だと思うが、よく、「俳句」は「宇宙」であり「短歌」は「心」だと言われる。確かに、「古池や かはず飛び込む 水の音」という芭蕉の句はまさに宇宙空間を描いていると言える。一方、「名にしおはば いざ言とはむ 都鳥 わが思う人は ありやなしやと」という在原業平の有名な歌では、確かに都鳥が飛んでいく情景は目に浮かぶが、それよりもそれに託す「わが思う人」への気持ちが切々と伝わってくる。かたや「5,7,5」かたや「5,7,5,7,7」と14文字加わっただけなのに何がそんなに違うのか。

  7,7が加わることによりそこに込めることのできる思いの量が増えるからだと思う。少ない単語をつなぐほど思いは凝縮され、伝えるものが普遍的な自然や宇宙に昇華していかざるを得ないのであろう。今漠然と物を考え、漠然と文章を作っている人は、一度俳句、短歌を作ってみてはどうだろうか。自分の語彙の少なさ、思いを言葉で伝えることの難しさを感じるに違いない。でも練習していくうちに自分の頭脳のどこかに埋まっていた言葉や思考能力が活性化し、うまく歌えるようになるはずだ。そうすることで日ごろ自分が使っている言葉が他人にはどのように伝わっているか、など様々な反省も浮かび、そこから「カイゼン」すべき点も見えてくるのではないだろうか。

  「型」に戻ることでもう一つメリットがある。それは自分を客観視することができるようになることである。社会に出ると自分の相対的な位置づけがどこにあるのかは、会社の評価くらいでしか感じられないようになる。その評価も日本の人事制度はあいまいであるから、自分の力がいったいどの程度なのかは実はよくわからないものだ。しかし、「型」にはめた運動をしてみると、自分の体の硬さ、体力、筋力など自分の持つ力を客観的にみることができるように、思考力も自分で自分を測ることはできるはずだ。俳句と短歌を例にあげたが、短いエッセイでも良い。テーマを決めて書いてみる。なかなか人に読んでもらえるような文章はすぐには書けないはずだ。でも推敲するうちに不思議なもので必ず、文章とは良くなっていくものだ。そして誰かに読んでもらいどれだけ伝わっているかを確認してみる。そんな中で日ごろ自分が人とコミュニケーションをしている時使っている言葉が、どの程度人を説得できるものであったかがわかってくる。実はもっと練り上げればうまく伝えることができるのではないかと思えてくるはずだ。つまり、「型」ここでは短文に表してみること、いいかえると「形」にすることで初めて自分が分かり、それを繰り返すことで自分が伸びていくことが感じられる。知らぬ間に脳細胞も鍛えられていくのである。

  言葉は人と自分をつなぐ最大の道具である。企業は人の集合体であり、その中で機能する一人ひとりの人間がわずかずつでも表現力や理解力をみがき、コミュニケーション能力を上げれば、全体としては大きな生産性向上につながるはずだ。また、個々人が自分の相対的な能力を自覚し、常に努力が必要なことを実感すれば、間違った思い込みや相手に対する誤解で無用に衝突することも減るのではないだろうか。そんな効用を信じて「型」「形」への回帰をお勧めしたいと思う。